2017年1月7日土曜日

寄 稿 「釣り談義」

松田忠好
釣り好きは気が短いというのが定説です。
私も我が国の電車のように、定刻にしか来ないのを10分前からホームで待っているのはやりきれないが、可能性があるならば、結果的に一匹もつれなくても、数時間待つのは、何ら苦痛ではありません。少年のころ、毎日のように近くの小川に釣りに出かけ、夕方薄暗くなるまで、家に帰らず、母に心配をかけ、「勉強もしないで、釣りばっかりして!」と叱られたことしばしばです。



初夏の公園F4

しかし後年、高校で「積分」なるものに出会ったり、魚が今来るか(今釣れるか)いまくるか、という瞬間の積み重ね(釣り好きは気が短いという秘密はここにあります)が、いつの間にか何時間にもなってしまう。ということから「積分」の原理を実感し、理解したのは釣りのおかげと思っています。
釣りの諺には「逃がした魚は大きい」からはじまって、「釣りの話をするときは、手を縛ってからにしろ」、はては、「釣り上げた魚を食ってしまってからでも大きくできるのは、人間だけ」という神様も顔まけのものまであります。



待春の沼F20


私がゴルフをはじめて間もない頃、もうベテランだったF君等とプレイをしたとき、私のゴルフバッグを見て、「君ねえ(我が輩のように)ベテランは、クラブはハーフセットでも好いけど、初心者の君はそうはいかないよ。ベテランになると、一本のクラブで、いろいろな距離を打ち分けられるけれどね・・・」と教えられた。
 私は釣り竿一本で、いろいろな長さを投げ分けることができる。が、釣りの初心者はそうはいかないようです。F君の助言に従い、早速フルセットにそろえることにしました。


五月の川F6

展覧会の案内 2017年

2.エルム水彩展 2/27~3/5  銀座アートホール

1.長谷川 脩 水彩画展 1/17~1/29  町田市立中央図書館

ニュース2017年1月

長谷川 脩・水彩画展

時:1月17(火)~29(日)(2週間)
所:町田市立中央図書館
上記「町田の風景」と題し、長谷川脩氏の
作品22点が町田図書館に展示されます。


明けましておめでとうございます (大谷敏久)

昨年ですが 木綿弘子さんの「千葉県立美術館長賞」受賞おめでとうございます。
講評に審査員がいみじくも触れている点こそ東京黒百合会の魂です。
何よりもうれしいことで「実ってきた」と思いました。
創始先輩に心から感謝しなければなりません。
新年にあたり、会報表紙になった(大根の天日干し)に似合う俳句と絵になる句を
絵の仲間(旧エルム写生会会員)杉山美恵さんの句から選んでみました。
      
      ◎ 遠近の山風集め大根干す     
      ※ 年神に命の更新賜りて
      ※ 若冲の鶏が散らすか実南天
      ※ 雲光り水平らなる初山河

下図「大根畑と海景」は東京黒百合会の皆さんが昨年10月一泊写生会で
「三浦半島」を描いておられるのを思いながら私も描きました。
曽遊の風景から「今ならこう描く」に挑戦していますが、その一つです。



大谷敏久:大根畑と海(三浦海岸)F4


2017年1月6日金曜日

私のモチーフ 「時の流れ」 細井眞澄

 札幌での学生生活が遠い過去の思い出となって来てしまいました。今回の私のモチーフはそんな青春時代の一コマを思い出し、描き上げた「時の流れ」と言う題名の作品です。
子供の頃からの大の鉄道ファンで、SLを追いかけて、当時最後までSLが走っていた北海道に内地から海を渡り、やって来ました。特にそのたくましさが発揮されるのは、空がきれいに晴れ渡った厳冬の季節です。よく函館本線の山奥にまで、カメラと三脚を抱えて、C62の重連(山の勾配がきついので2台)で走る蒸気機関車の写真を撮りに出かけました。遠くの方から徐々に、音が大きくなって来て、山をアエギ、アエギ、モクモクと真っ白な煙を上げながら、雪の積もった坂道を駆け登って来るSLの迫力に感動し、その姿に魅了されました。機関士さんが時々、サービスで汽笛を鳴らしてくれました。その音が廻りの山々にコダマして、荘厳な交響楽を、大自然のライブ会場で、たった一人で、聞いている様な至福の一時でした。
凍て付く厳冬の北海道の大地にも朝は必ずやって来ます。将来どんな人生が待っているのか解らず、不安そうな顔をしている猿が私でもあります。この絵を今年の年賀状にしようと思い、鶏を付け加えました。サルからトリ年に主役が交替致しました。夜明けもまじかです。太陽が昇る時に高らかに鶏が鳴き始めます。神鶏とも呼ばれる一番鶏の鳴き声をお届け致します。皆様にとって良き年であります様に心より祈念申し上げます。

「時の流れ」 油彩 F20号

ダリ展 小石浩治

ダリ展  (サルバドール・ダリ:1904―1984)
(9/14~12/12 /2016国立新美術館) 
奇才ダリの絵については現在も様々な解釈、推測が飛び交い、簡単には理解し難い。それでも心のどこかに「不可解な面白さ」を認めるのは、「まずアイデアがある」ことが、ダリの絵の本質若しくは創作の源泉となっているからだろう。

「記憶の固執」・1931
ある人がダリの<反り返った髭はどうやって維持しているか>と尋ねたら、「これは水飴で固めているのだよ」と答えたという。
※ウイキペディア(インターネット百科事典)より



美術館展示目録や美術雑誌など参考にダリの生涯を大雑把に辿ってみる。
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1904年、ダリはスペインの裕福な公証人(母方も富裕な商家)の息子として生まれ、芸術や文化に造詣が深く自由な気風の家庭に育った。17歳で母を亡くし1922年美術学校に入学するも母の愛が忘れられず、また先に亡くなった兄の名を与えられ、コンプレックスを持つうちに反抗的態度が強く遂には学校も退学になった。1928年、パリに赴き、ピカソ、アラゴン、ブルトンらシュルレアリスムの中心人物と面識を得る。1929年ダリ25歳の夏、10歳年上のガラと出会い、以来、ガラ一筋だった。(1934年にガラと結婚)。1929年に正式にシュルレアリスト・グループに参加した。「子ども、女への壮大な記念碑」1929 の「子ども、女」はガラのことを示す。その光景は「幼少期から青年期におよぶ恐怖心の象徴的存在であり、ダリはその恐怖心をガラに捧げたことを表現している」と言われる。しかし別の解釈では、「腐敗のイメージで、腐っていくものが溶け合って別の新しい存在が生まれる」と説く人もいる。シュルレアリスムとは、フロイトの精神分析の影響下に1924年発刊されたブルトンの 「シュルレアリスム宣言」に始まる。
<愛しい想像力よ、私がお前のなかで何よりも愛しているのは、お前が容赦しないということなのだ>
岩波文庫・巖谷國士訳「シュルリアリスム宣言」より
 芸術運動の指針に掲げる(夢と現実という対照的な二つの状態が解消していく、いわば一つの超現実を征服することを目指す)とは? どういうことを宣言したのか、私にはイメージが浮かばない。
※アンドレ・ブルトン=大学で医学と心理学専攻、第一次世界大戦中は青年軍医だった。精神病院の患者たちと接触し人間の深層心理に関わった。70歳没。

「子ども、女への壮大な記念碑」・1929
1900―50年、20世紀半ば迄第一次、第二次世界大戦をはさみ、さらに美術様式もフォーヴィズム、キュビズム、ダダ、抽象絵画、そしてシュルレリスムなど、変革の波が押し寄せた時期である。その多様性は19世紀末美術に既にその兆し、萌芽を見ることができる。

ダリは自分の制作方法を「偏執狂的批判的方法」と称し、写実的描法を用いながら多重イメージを駆使して夢のような風景画を描いた。その「夢・絵空事」を重ねることが、自分にとって最上の悦びとしていたように思える。
第二次世界大戦(1939-1945)が勃発するとダリとガラは1940年にアメリカに亡命して1948年まで過ごす。ダリは舞台芸術や映画などの美術の仕事を行い、ヒッチコック、デイズニ―、マルクス兄弟などにも協力している。その他、商業的な仕事や出版を通じて、シュルレアリスムを体現する名士としての地位を確立する。
1945年に第二次世界大戦が終結、広島、長崎への原爆投下に大きなショックを受ける。これをきっかけに原子力や核兵器を作り出す科学について知りたいと思うようになった。そして、新しい原子物理学の知見と宗教的な神秘主義を結び付けることで、核時代の到来による決定的に変質した新しい世界における芸術の在り方を探ろうとした。以下?A?B?Cは同一作家の5年毎の画想の変化・変貌と見えないだろうか。
「ウラニュウと原子による憂鬱な牧歌」1945
  画面中央には原爆を落とす戦闘機が首を左斜めに傾けた人間の頭部の中に描かれている。野球選手はアメリカを象徴し、黒を基調とした画面は、
原爆がもたらす恐怖により示される陰鬱な世界が広がる。

「ウラニュウと原子による憂鬱な牧歌」1945
「ポルト・リガトの聖母」1950 福岡市美術館蔵
  戦後は運動から遠ざかり、ヨーロッパの古典絵画への関心を深めた。その一方で原子物理学にも傾倒していった。右絵の構図は原子核構造になっていて、聖母マリアは愛妻ガラ、幼児はダリを表すという。核の恐怖に支配される世界では神は存在せず、創造の源泉は愛妻ガラだけということを表すと言われる。作品は福岡美術館にある。

「ポルト・リガトの聖母」1950 福岡市美術館蔵
「ラファエロの聖母の最高速度」1954
  ルネッサンスの画家ラファエロ風に描いた作品。聖母像が動的エネルギーによって旋回しながら幾何学的な形態に解体される様子。中心部にマリアの目、唇がわずかに見える。

「ラファエロの聖母の最高速度」1954
1948年にはダリとガラはスペインに戻り、生まれ故郷に近い漁村ポルト・リガトに住み、制作活動を行う。1960-70代に各国で展覧会開催。
  ガラは常にダリに寄り添い、ミューズとしてダリの芸術に霊感を与え、プロデユーサーでもあった。その愛するガラが1982年に死去すると「自分の人生の舵を失った」と激しく落ち込み、1983年5月以降、絵画制作を止める。
1989年 心不全により死去。85歳だった。
ダリは自作に対し「ダリの作品は誰にも分らない。ダリにもわからない」とダジャレで話していたという。それが本当なら「曲がった時計」も
ダリ(誰?)も知らぬ間に“振子”が中に潜んで時を刻んでいるかもしれない。